当たり前だけど、自分の立っているところから見えるものしか見えない
ここ半年、大きな病気をして仕事も休んで治療に専念する毎日を送っている。
病気っていうのは乳がん。気を付ける年代になったのは知っていたし、可能性はあるのだと思っていたけど、実際に告知を受けると全く違う世界に踏み出すことになった。
8月30日、告知前の更年期障害はあるけどまあ健康な自分と、告知後の死の可能性や自分に起きる様々なことや家族に及ぼす影響を考えずにはいられない自分との間には大きくて深い溝が横たわった。もう跨いで戻ることができないのだ。
とはいえ治療に入るに当たっては、必要に応じて色んな人に報告や説明をし、その時のそれぞれの反応に、大きなショックを受けることになった。
職場の上司に話をした際には、「まあ、二人に一人はがんになる時代だからね!ははは!」、弟に知られて説明した時には「まあ、頑張って。勉強と一緒よ。やれば結果が出るから」など、ただただ心を抉られるような反応に出くわした。
姉に至っては「あなたのそういうものの考え方のせいで、、、」と始まったところでこれ以上聞いてしまっては心臓が持たないと、電話をぶち切ってしまった。
また、自分の一番辛かった経験をいかに乗り越えてきたのかを切々と語り、だからあなたも大丈夫、という論法も複数聞かされた。
救いだったのは、夫や母のサポート。それから、看護師をしている友達と福祉相談職をしている友達が定期的に、連絡をくれて気持ちに寄り添って困りごとなど聞いてくれたこと。必要だと思われることを調べたり、有益な情報をくれた。何度も何度も救われた。
今の私は、言いたいことを言う人とそう気楽に付き合える状態ではないのだろう。私の気持ちを察してくれる人ばかりではないのは分かっている。当たり前だけど、自分の立っているところから見えるものしか見えないのだから。
生きるって大きな流れに流されているだけなのか
ここでブログを書こうとした6年前に、自分が誰なのかわからないことを書こうとしていたようで笑ってしまった。
その頃、ちょうど私は長女の発達特性が引き起こす毎日の事象の対応に追われ、母としての責任を一手に担い、忘れ物を届けたり無くした鍵を探したり、クラスで起こした問題にあちこちに謝罪や説明に出向くことに明け暮れていた。そしてその頃はまだ、支援が必要だという考えには至っていなかった。
長女のADHDの発達特性は、小学校低学年の時には「元気で発言も多くクラスでも友達の多い面白キャラ」と思われていたのが、高学年になり「ただの自分勝手なやつ」に変わりつつあったようだった。とにかく、毎日小さなことから大きなことまでたくさんの問題を起こした。
その対応に追われる中で、仕事も辞めざるを得なくなり自分は一体何をしているんだろう、自分は母だけど、その前に一人の人間だったんじゃないのだっけ、ととても苦しかった。
6年が経って、私の二人の娘は高2と小5になった。
長女のADHD的な特性はやはり、成長とともに環境とうまく馴染むことが難しくなってきたように見える。学校では、自己評価の高さに実際の成績や生活態度の評価が見合わないと感じて、受け止めきれないようだ。家庭では、片付けができず、数ヶ月前のお弁当や水筒、脱ぎっぱなしの洋服、教科書プリント類に埋もれた使用済みの靴下を引っ張り出して履いていくような生活をしている。
次女はそんな長女を見てか、優先順位を理解しながらもマイペースに学校と家での時間を過ごしている。
そして私は、母業以外の自分のすることをしなければ、と考えている。
自分は誰なんだろう
自分は誰なんだろう。
母になって、12年になろうとしている。
子どもの母であることに間違いはない。
この母という役割があるおかげで、
私は大きな流れに乗り、
大きな考え方の一部となり、
多くの人との共感を持てているように思う。
それは不確かではあるけれど、なにがしかの安定をもたらしている。
しかし同時に、それは私を混乱させ続けている。
一体私は誰なんだろう。
完全に迷い込んでいる。